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聞いただけでは、理解しにくかったので調べてみました。
お寺は、よく旧暦をたとえに出して話されます。
そのほうが、四季が解かりやすいみたいです。
ユリウス暦
紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名にちなんでJuliusと呼ばれるようになった。閏年は4年に一度と決められたが、カエサルの死後、誤って3年に一度ずつ閏日が挿入された。この誤りを修正するため、ローマ皇帝・アウグストゥスは紀元前8年から数年間、閏年を停止した。紀元8年からは毎4年ごとに閏日が挿入されている。同時に8月の名称を自分の名Augustusに変更した。
紀元前45年から紀元8年まで、どのような周期で閏年がおかれていたのかについては詳しい記録が残っておらず、その後何度か論議になった。紀元前45年から3年おきという学者もいれば、紀元前44年から3年おきという学者もいた。1999年にローマ暦とエジプト暦の両方の日付が記載された紀元前24年当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元12年までの閏年のおかれかたは次のとおりである。
紀元前44年、紀元前41年、紀元前38年、紀元前35年、紀元前32年、紀元前29年、紀元前26年、紀元前23年、紀元前20年、紀元前17年、紀元前14年、紀元前11年、紀元前8年、紀元8年、紀元12年(以後、4年ごと)。
ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月のAugustusだけだった。多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとしたが、残りのすべての改名の企てはその皇帝の死とともに元の月名に戻った。カリグラは9月をGermanicusと、クラウディウスは3月をClaudius(クラウディウス)と、ネロは4月をNeroneusと改名した。ドミティアヌスは10月をDomitianusと改名した。9月はアントニヌス・ピウスによってAntoninusと改名されたほか、タキトゥスによってもTacitusと改名された。11月はピウスの妻の名をとってFaustinaにされたりRomanusにされたりした。コンモドゥスは月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順にAmazonius(1月)、Invictus(2月)、Felix(3月)、Pius(4月)、Lucius(5月)、Aelius(6月)、Aurelius(7月)、Commodus(8月)、Augustus(9月)、Herculeus(10月)、Romanus(11月)、Exsuperatorius(12月)。しかし前述したとおり、どの改名もその皇帝が死亡するとすぐに戻され、長続きしなかった。
グレゴリオ暦
16世紀後半、当時用いられていたユリウス暦における季節と実際の季節とのずれが顕著になっていた。このため、教会法刷新のために召集されたトリエント公会議(1545年 - 1563年)は教皇に暦法改正の業務を委託した。教皇・グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させて、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、当時の代表的な科学者であった天文学者アロイシウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれた。委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、同年10月4日(木曜日)の翌日を10月15日(金曜日)とすることを定めた
旧暦
東アジアの多くの国では、グレゴリオ暦に改暦する前は中国暦またはそれをもとにした暦が使われていた。これらの暦は太陰太陽暦に分類されるので、旧暦を単に太陰太陽暦と言ったり正しい語法ではないが太陰暦・陰暦と言ったりする。なおその場合、新暦は太陽暦・陽暦とも言う。
グレゴリオ暦への改暦以前にも多数の改暦があったがグレゴリオ暦への改暦に比べれば小さな変更にすぎないため、暦法の細部を問題にしないときはグレゴリオ暦以前の暦法をまとめて旧暦と呼ぶことも多い。
各国の旧暦は基本はほとんど同じだが、標準時が異なる。そのため時差により朔や節気の日付がずれ、同じ日の日付が1日または1月ずれることがある。たとえば2007年2月18日未明(日本標準時)の朔は日本や中国では日付が変わって2月18日だったが、ベトナムではまだ2月17日だった。そのため旧正月(旧暦1月1日)が日本や中国では2月18日、ベトナムでは2月17日になった。この種のずれは数年に一度起こるが、ほとんどの場合翌月1日(旧暦で)には解消されるので、旧正月のずれを引き起こす1月以外では大きな混乱を引き起こすことはない。なお、旧暦に使われている標準時はその国の標準時と異なることがある